2009年12月 9日
風船爆弾について
風船爆弾は、和紙で作られた気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカを攻撃しようとする兵器である。神奈川県の陸軍登戸研究所で開発された。満州事変後の昭和8年(1933年)頃から関東軍、陸軍によって研究され、昭和19年(1944年)から実用化した。当初は海軍もゴム引き絹製の気球を用いた対米攻撃を研究していたが、海軍の計画は途中で放棄され、機材と資料は陸軍に引き渡された。海軍式のゴム引き気球も少数実戦に使用されている。
当時、日本の高層気象台(現・つくば市)の台長だった大石和三郎らに発見されていたジェット気流(偏西風の流れ)を利用し、爆弾を気球に乗せ、日本本土から直接アメリカ本土空襲を行うもので、千葉県一ノ宮・茨城県大津・福島県勿来の各海岸から放球された。
気球の直径は約10m、総重量は200kg。兵装は15kg爆弾一発と5kg焼夷弾2発である。ジェット気流で安定的に米国本土に送るためには夜間の温度低下による気球が落ちるのが問題であった。これを解決する為、気圧計とバラストを連動させ運用して米本土へ飛ばした。兵装には少数ながらバリエーションがあり、爆弾を二発としたものや焼夷弾の性能を上げたものも発射された。また、爆弾の代わりに兵士2-3名を搭乗させる研究も行われた。昭和19年冬から20年春まで攻撃が実行されたが、戦況の悪化などの理由により、昭和20年冬の攻撃は計画されなかった。
生産個数はおよそ1万発。このうち9300発が放球された。アメリカ合衆国で確認されたのは361発であるが、未確認のものもあるため実数は不明である。1000発程度が到達したとする推計もある。アメリカ軍はレーダーを駆使して発見につとめたが、すべてを確認することはできなかった。風船爆弾が発見されると安全地帯上空で迎撃が試みられた。風船爆弾を撃墜するアメリカ軍戦闘機のガンカメラ映像がある(画像参照)。終戦時に残存していた700発は焼却処分された。
兵器の現物は国内に残存しないが、江戸東京博物館に5分の1模型があり、埼玉県平和資料館に7分の1模型が展示されている。国立科学博物館に非公開ながら、重要部品の風船爆弾の気圧計が保管されている。アメリカのスミソニアン博物館の保管庫には気球部分が保管。気圧計及び爆弾部分の気球下部部分の実物は国立航空宇宙博物館に展示されている。
風船爆弾による心理的効果は大きなものがあった。アメリカ陸軍は、風船爆弾が生物兵器を搭載することを危惧していた。着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用している(実際生物兵器を搭載される案があったが、昭和天皇の反対により搭載される事はなかった)。また、少人数の日本兵が風船に乗って米本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。風船爆弾対策のため、アメリカは大きな努力を強いられた。
一方でアメリカは厳重な報道管制をしいて風船爆弾による被害を隠蔽した。これはアメリカ側の戦意維持のためと、日本側が戦果を確認できないようにするためであった。この報道管制は徹底したもので、戦争が終わるまで日本側では風船爆弾の効果はまったくわからなかった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
材質は楮製の和紙とコンニャク糊だったそうです。
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